三宅 芳夫 on Nostr: ...
なるほど、「絶対主義」という概念はなかったにしても17,18世紀の仏が中央集権国家のモデルであることに変わりないという反論もある得るかもしれない。
しかし、ルイ王朝時代の仏を「集権国家」とするとするテーゼは歴史学分野ではすでに一世代前から否定されている。
17,18世紀の近代世界システムの成立の際、最も効率的な集権国家の立ち上げに成功したのは、先駆的にオランダ、最終的には英国、というのが現在の通説である。
となれば、19世紀前半に「絶対主義」的仏に寡頭制・立憲主義的議会主義の英国をモデルとして対置し、その範例としてモンテスキューを引き合い出す、という企て自体が「壮大な空振り」と言うことになりかねない(著者は20世紀には頻りに目配せをするにも関わらすこの文脈に一言の言及もない)。
さらに言えば、著者の仏一国史的な視点の限界は1688-1815年の英仏のグローバルな覇権闘争への「無関心」からも伺える。
なるほど、1756年の「外交革命と七年戦争」に僅かに言及されてはいる。しかし、1688年の決定的な意味にはかすりもしない。これは著者の仏中心主義から来るオランダへの無関心とも関係があろう。
1688年の名誉革命はオラニエ公ウィレムが英国国王になったことを意味する。
しかし、ルイ王朝時代の仏を「集権国家」とするとするテーゼは歴史学分野ではすでに一世代前から否定されている。
17,18世紀の近代世界システムの成立の際、最も効率的な集権国家の立ち上げに成功したのは、先駆的にオランダ、最終的には英国、というのが現在の通説である。
となれば、19世紀前半に「絶対主義」的仏に寡頭制・立憲主義的議会主義の英国をモデルとして対置し、その範例としてモンテスキューを引き合い出す、という企て自体が「壮大な空振り」と言うことになりかねない(著者は20世紀には頻りに目配せをするにも関わらすこの文脈に一言の言及もない)。
さらに言えば、著者の仏一国史的な視点の限界は1688-1815年の英仏のグローバルな覇権闘争への「無関心」からも伺える。
なるほど、1756年の「外交革命と七年戦争」に僅かに言及されてはいる。しかし、1688年の決定的な意味にはかすりもしない。これは著者の仏中心主義から来るオランダへの無関心とも関係があろう。
1688年の名誉革命はオラニエ公ウィレムが英国国王になったことを意味する。