三宅 芳夫 on Nostr: ...
まず、この時代の言説全体の限界というべきか、この独創的なモンテスキュー研究の額縁=アクチュアリティの部分で、やはり「近代」と「近代批判」というやや凡庸な図式が見え隠れすること。
ただし、おそらく川出先生は、実際は、この「近代」と「近代批判」という図式にはさほど興味はないらしく、時折まさに額縁的に散見されるものの、全体の叙述において、大きな意味は与えられていない。
とは言え、モンテスキューを19世紀以降から現代までつなげる環としてヘーゲルとニーチェを簡単に論じるのだが、この箇所は、率直に言って、この名著の「弱み」となっている。
とりわけニーチェを「民主主義的凡庸さ」に「高貴な情念としての貴族的精神」、「平等を基礎に据えた近代個人主義対する妥協の余地の内全面的な闘争」としている結論は、あまりにも「素人」くさく、「プロフェッショナル志向」の川出先生らしくない。
「平等」を敵視する、この「貴族主義」へのナイーヴな評価は、本論にも反映しており、「奴隷制」反対の18世紀リベラリズムのみ評価し、この言説が19世紀以降「文明化」=帝国主義の論理に転化していったことににまるで無自覚である。
この点においては、やはり思想家としては丸山眞男には届いていないと言うべきだろう。
ただし、おそらく川出先生は、実際は、この「近代」と「近代批判」という図式にはさほど興味はないらしく、時折まさに額縁的に散見されるものの、全体の叙述において、大きな意味は与えられていない。
とは言え、モンテスキューを19世紀以降から現代までつなげる環としてヘーゲルとニーチェを簡単に論じるのだが、この箇所は、率直に言って、この名著の「弱み」となっている。
とりわけニーチェを「民主主義的凡庸さ」に「高貴な情念としての貴族的精神」、「平等を基礎に据えた近代個人主義対する妥協の余地の内全面的な闘争」としている結論は、あまりにも「素人」くさく、「プロフェッショナル志向」の川出先生らしくない。
「平等」を敵視する、この「貴族主義」へのナイーヴな評価は、本論にも反映しており、「奴隷制」反対の18世紀リベラリズムのみ評価し、この言説が19世紀以降「文明化」=帝国主義の論理に転化していったことににまるで無自覚である。
この点においては、やはり思想家としては丸山眞男には届いていないと言うべきだろう。