三宅 芳夫 on Nostr: ...
さて、『消え去る立法者』、評価すべき点は秀才故の明晰な記述だけではない。
本人の専門は元来ディドロであり、ルソー、モンテスキューはフランスにおける「研究」を基準とすれば専門から外れる。
にも関わらず、あえて16世紀以来の思想史の大きな絵を前提に、法制史と思想史を横断しながら、モンテスキューとルソーを「立法者」という概念を軸に繋げてみせる、とはある意味挑戦的な試みであり、専門家だけでなく一般の知的読者に向けた挑発への誘いでもある。その意味でも「研究」の態をとった批評と言えよう。
ところで、小林秀雄から柄谷行人に至る日本の批評は、もはや柄谷本人が「近代文学の死」を宣言してから30年が経ち、たしかに「批評」というジャンルは残存しているものの、それはほとんど内輪の閉じた同人言語の集積であって、「外」の人間には何の意味もない。その中で、柄谷から出発した著者の試みは「外」の読者にとって「挑発」にのるだけの価値がある力作である。
このことを前提にした上で、まず指摘したいのは、本書は19世紀以降を意図的に「切っている」いながら、全体の構図が「絶対主義」という19世紀前半に創造された概念を17,18世紀に投影する、という「回顧的錯覚」の上に描かれている、という点である。
本人の専門は元来ディドロであり、ルソー、モンテスキューはフランスにおける「研究」を基準とすれば専門から外れる。
にも関わらず、あえて16世紀以来の思想史の大きな絵を前提に、法制史と思想史を横断しながら、モンテスキューとルソーを「立法者」という概念を軸に繋げてみせる、とはある意味挑戦的な試みであり、専門家だけでなく一般の知的読者に向けた挑発への誘いでもある。その意味でも「研究」の態をとった批評と言えよう。
ところで、小林秀雄から柄谷行人に至る日本の批評は、もはや柄谷本人が「近代文学の死」を宣言してから30年が経ち、たしかに「批評」というジャンルは残存しているものの、それはほとんど内輪の閉じた同人言語の集積であって、「外」の人間には何の意味もない。その中で、柄谷から出発した著者の試みは「外」の読者にとって「挑発」にのるだけの価値がある力作である。
このことを前提にした上で、まず指摘したいのは、本書は19世紀以降を意図的に「切っている」いながら、全体の構図が「絶対主義」という19世紀前半に創造された概念を17,18世紀に投影する、という「回顧的錯覚」の上に描かれている、という点である。