丸毛鈴 on Nostr: *** 玄関の薄暗がりに、お前がいた。 ...
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玄関の薄暗がりに、お前がいた。
「りー、りー、りー」
お前は幼く薄い唇を震わせて、そう言っている。建てられたときからどこか古びていたこの家の、段板のみが渡されたデザインの階段。その前に座って、階段下の空間を見つめて。
お前の視線の向かう先からは、リーンリーンリーンと、虫の音が響いている。この家でいちばん涼しい階段下に、鈴虫を入れた虫かごがあるからだ。
鈴虫は、町外れの定期市で買ったものだ。外から見ると廃工場にしか見えないスレート屋根の下、「7」のつく日には、色鮮やかなトマトやにぶく光る茄子、まだ朝露をつけたきゅうり、ぬか漬けのまま持ち込まれた漬物がところ狭しと並ぶのだ。夏も終わりになると、そこに鈴虫が加わる。プラスチックの虫かごに入れられた鈴虫たちは、市場の暗さを夜と勘違いするのか、「リーンリーン」と鳴き声を響かせる。
リーンリーンリーン。
虫の音が聞こえる。庭か? いや、階段下か。
リーンリーンリーン。
そうだ。わたしはもう階段の前にいる。そして、お前。目の前に、お前がいる。お前はじいっと座って、虫の音に耳を傾けている。
お前は膝をきゅっと抱えて座っている。汗ばむ額に柔らかい髪をはりつかせ、瞳に玄関の常夜灯の光を反射させ、真剣に。やがて薄い唇を開いて、「りー、りー、りー」と言うのだ。鳴き声を真似するでもなく、いっしょに鳴くのでもない、曖昧なそのトーン。
まだ幼いお前。うさぎが描かれたタンクトップを来て、おむつの丸みがわかるズボンを履いて、膝を抱えて。
そうだ。あのとき、わたしは思った。いつか遠い未来、お前が巣立ってふと思い出すのは、こんな光景だろうと。
リーンリーンリーン。
ああ、虫の音がする。切なく、狂おしく、翅をこすりあわせて鳴いている。
階段下か? そう考えて、いや、とわたしは否定する。何十年も前に、あの定期市は廃止されてしまった。鈴虫を買うことは、もうない。
第一、お前はもういない。いつの間にかおむつが取れ、子ども用の自転車に乗るようになり、制服を着て電車に乗るようになり、遠いところへ旅立って行った。お前は歩き続け、もうこの家に戻ることはない。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
だとしたら、この音は、どこから。
わたしは暗がりのなか、手探りで懐中電灯を探す。玄関の常夜灯など、とっくにつかなくなっている。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
音は近く、近く聞こえている。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
そうだ、庭か。わたしは庭へと回る。溢れるがらくたに、足を取られそうになりながら。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
ああ。草が深い。でも、どこからか虫の音がする。どこに、どこにいる。わたしは草をかきわけて進む。どこ、どこ、どこ。
ここにはただ草があるだけで、目印がない。お前が小さい黄色の実をねだったキンカンの木も、花の色が変わることに驚いたあのあじさいも、どこにもない。
ああ。あの虫の音は、もっと遠く、遠く。ここではないどこかから響く。
リーン、リーン、リーン。
「りー、りー、りー」
その虫の音に、お前の声が重なって、わたしの口元には自然と笑みが浮かぶ。
「りー、りー、りー、りー、りー、りー」
わたしもお前の真似をして、口ずさんでみる。草が覆いかぶさり、わたしを吞み込もうとする。
「りー、りー、りー、りー、りー、りー」
わたしは草にあらがい、かきわけて進んでいく。やまない鈴虫の音を追いながら。お前の声を聞きながら、どこまでもどこまでも。
リーン、リーン、リーン。
遠く近く。鈴虫が、どこかで鳴いている。
玄関の薄暗がりに、お前がいた。
「りー、りー、りー」
お前は幼く薄い唇を震わせて、そう言っている。建てられたときからどこか古びていたこの家の、段板のみが渡されたデザインの階段。その前に座って、階段下の空間を見つめて。
お前の視線の向かう先からは、リーンリーンリーンと、虫の音が響いている。この家でいちばん涼しい階段下に、鈴虫を入れた虫かごがあるからだ。
鈴虫は、町外れの定期市で買ったものだ。外から見ると廃工場にしか見えないスレート屋根の下、「7」のつく日には、色鮮やかなトマトやにぶく光る茄子、まだ朝露をつけたきゅうり、ぬか漬けのまま持ち込まれた漬物がところ狭しと並ぶのだ。夏も終わりになると、そこに鈴虫が加わる。プラスチックの虫かごに入れられた鈴虫たちは、市場の暗さを夜と勘違いするのか、「リーンリーン」と鳴き声を響かせる。
リーンリーンリーン。
虫の音が聞こえる。庭か? いや、階段下か。
リーンリーンリーン。
そうだ。わたしはもう階段の前にいる。そして、お前。目の前に、お前がいる。お前はじいっと座って、虫の音に耳を傾けている。
お前は膝をきゅっと抱えて座っている。汗ばむ額に柔らかい髪をはりつかせ、瞳に玄関の常夜灯の光を反射させ、真剣に。やがて薄い唇を開いて、「りー、りー、りー」と言うのだ。鳴き声を真似するでもなく、いっしょに鳴くのでもない、曖昧なそのトーン。
まだ幼いお前。うさぎが描かれたタンクトップを来て、おむつの丸みがわかるズボンを履いて、膝を抱えて。
そうだ。あのとき、わたしは思った。いつか遠い未来、お前が巣立ってふと思い出すのは、こんな光景だろうと。
リーンリーンリーン。
ああ、虫の音がする。切なく、狂おしく、翅をこすりあわせて鳴いている。
階段下か? そう考えて、いや、とわたしは否定する。何十年も前に、あの定期市は廃止されてしまった。鈴虫を買うことは、もうない。
第一、お前はもういない。いつの間にかおむつが取れ、子ども用の自転車に乗るようになり、制服を着て電車に乗るようになり、遠いところへ旅立って行った。お前は歩き続け、もうこの家に戻ることはない。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
だとしたら、この音は、どこから。
わたしは暗がりのなか、手探りで懐中電灯を探す。玄関の常夜灯など、とっくにつかなくなっている。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
音は近く、近く聞こえている。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
そうだ、庭か。わたしは庭へと回る。溢れるがらくたに、足を取られそうになりながら。
リーンリーンリーン。
リーンリーンリーン。
ああ。草が深い。でも、どこからか虫の音がする。どこに、どこにいる。わたしは草をかきわけて進む。どこ、どこ、どこ。
ここにはただ草があるだけで、目印がない。お前が小さい黄色の実をねだったキンカンの木も、花の色が変わることに驚いたあのあじさいも、どこにもない。
ああ。あの虫の音は、もっと遠く、遠く。ここではないどこかから響く。
リーン、リーン、リーン。
「りー、りー、りー」
その虫の音に、お前の声が重なって、わたしの口元には自然と笑みが浮かぶ。
「りー、りー、りー、りー、りー、りー」
わたしもお前の真似をして、口ずさんでみる。草が覆いかぶさり、わたしを吞み込もうとする。
「りー、りー、りー、りー、りー、りー」
わたしは草にあらがい、かきわけて進んでいく。やまない鈴虫の音を追いながら。お前の声を聞きながら、どこまでもどこまでも。
リーン、リーン、リーン。
遠く近く。鈴虫が、どこかで鳴いている。