三宅 芳夫 on Nostr: ...
「リベラルはもっと優しくなれ」となかなかに面白いことを言っている作家は、中村正則ではなく、中村文則でした。
しかし、この中村という作家、10年前の安保法制案件が盛り上がっている頃は、安倍に批判的だったような気がする。
これに関しては、星野智幸も同じである。要するに、「リベラル」とか「社会派」と見られると、文壇では「やっていけない」ということもあるだろう。
勿論、そもそも文壇という所が、政治や社会について「語らせない」、という力学が働いているのも事実である。
この傾向は、近代日本文学100年を通じて根強く、「純文学」という概念があるのは日本位である。
ついでに言うと、「純哲」と言って「政治」や「法」、「歴史」を排除して有難がるのも日本だけである。
この傾向は、日本の哲学科のヘゲモニーがドイツ哲学から分析哲学に移っても全く変わらない。
これには哲学が「文学部」の中の一学科にある、という制度的な背景もあるだろう。ドイツなどでは哲学部と法学部の二本立てになる。日本で言う工学部は大学ではなく、工科専門学校となる。
仏でも理工科専門学校(エコール・ポリテクニック)などの専門学校系がいわゆる「理系」の主力。逆に数学者はフーリエ、ガロアなどENS(高等師範学校)出身者が多い。
しかし、この中村という作家、10年前の安保法制案件が盛り上がっている頃は、安倍に批判的だったような気がする。
これに関しては、星野智幸も同じである。要するに、「リベラル」とか「社会派」と見られると、文壇では「やっていけない」ということもあるだろう。
勿論、そもそも文壇という所が、政治や社会について「語らせない」、という力学が働いているのも事実である。
この傾向は、近代日本文学100年を通じて根強く、「純文学」という概念があるのは日本位である。
ついでに言うと、「純哲」と言って「政治」や「法」、「歴史」を排除して有難がるのも日本だけである。
この傾向は、日本の哲学科のヘゲモニーがドイツ哲学から分析哲学に移っても全く変わらない。
これには哲学が「文学部」の中の一学科にある、という制度的な背景もあるだろう。ドイツなどでは哲学部と法学部の二本立てになる。日本で言う工学部は大学ではなく、工科専門学校となる。
仏でも理工科専門学校(エコール・ポリテクニック)などの専門学校系がいわゆる「理系」の主力。逆に数学者はフーリエ、ガロアなどENS(高等師範学校)出身者が多い。