丸毛鈴 on Nostr: ...
2023年2月に書いたエッセイ。ここに書いてある野菜の価格は、過去のものになっていくのかもしれません。
***
寒さに弱い。当然、冬は好きではない。
ただでさえ寒い一月、大寒のころ。超級の寒波が来るという。東京でも水道の凍結の恐れあり、との報が流れる。
うちは外に洗濯機が設置してあるため、めんどくさいな~と文句を言いつつ、凍結防止の対策をする。
といってもやるのはシンプルなこと。タオルを細く切り、蛇口に巻きつける。隙間ができないように、くるくると。たったそれだけ。ダメ押しで、その上から切ったTシャツの袖をかぶせる。あまったところは、洗濯ばさみできゅっととめてやる。
やっていると、なんだか愛らしいな……という気持ちになってくる。まるでちいさな存在に、「寒くないように」とマフラーを巻き、ついでにショールでくるんでやっているような。
とくだん蛇口をいとおしく感じるわけではない……のだが、なんというか、この行為自体を愛らしく感じるのだ。モヤっとした、非実在の、概念としての、愛らしさ。
寒波が去ったあと、洗濯機の水栓をひねると、いつも通り水が出た。それは凍結防止のタオルのおかげではなく、東京の気温が予報より高かったせいかもしれない。それでも、なんともうれしく、やはり感じたのは非実在の愛おしさだった。
暮らしの中で、四季の移り変わりに合わせて、ごくごく原始的な対策を講じる。人智の及ばぬ自然の力を感じながら、「乗り切れますように」と祈りつつ、何かをする。東京に住んでいると忘れがちなその営み自体に、いとおしさが含まれているのだろう。
もちろん「いとおしい」なんてのんきなことが言えるのは、自然の脅威を感じることが少ない南関東の都会暮らしだからこそ、ではあるのだけど。
そういえば、この冬は、大根の葉で作るふりかけにハマった。きっかけは、ある日、持ち帰るのが大変なほどにわっさわっさと葉をつけた大根を買い求めたこと。いままでは、葉をわざわざ調理するのがめんどうで、葉付きのものを買うことは避けていた。が、ここまで立派だとさすがに食指が動く。しかも価格は100円。
家に帰るとさっそく葉を切り分け、王道のふりかけにすることにした。ボリュームがすさまじく、我が家の狭いシンクで洗い、刻む作業は手間ではあったものの、葉は火が通りやすく、調理自体はごくごく簡単で短時間なものだった。
そうしてできあがったふりかけは、わずかな苦みと、やわらかな味わいがあって、なんとも美味しかった。この味なら、多少の「めんどくさい」など吹き飛んでしまう。
ご飯にかけ、おにぎりにし、惜しみつつ食べ切ったある日。夫婦で散歩中、直売所で見つけたのは、丸くふっくらとした蕪だった。しかも、我々が求めてやまない青々とした葉がついていて価格は150円。
料金入れに硬貨を入れた後、夫は蕪を持ち上げ、「蕪っていうより、この葉がうれしいよね」と笑顔を見せた。この「うれしい」は、我々夫婦がこの冬、見つけたもの。寒さの賜物だろう。
大根の葉と同じレシピでふりかけを作ったところ、蕪のほうが大根よりもクセがあった。しかし、そのクセこそが我々の好みだということがわかったのだった。
寒い季節には、寒い季節の喜びがあるものだ。寒いのは、やはり嫌ではあるけれど……。
季節は過ぎゆき、近ごろは直売所でも葉付きの根菜を見かけることは少なくなってきた。そんなある日、散歩ついでに以前の住まいふきんへ足をのばしたところ、なじみの精肉店に行き当たった。
ここの肉は、スーパーの底値ほどは安くないけれど、気軽に買える価格帯で、料理の味を底上げしてくれるほどに美味しいのだ。ふらりと入り、豚小間肉やひき肉など、使いやすいものをグラム指定で買い求める。計り売りなので、「150グラムを2袋」と分包してもらえるのもありがたい。
マイバッグにおさめて、意気揚々と家路につく。何しろ冬なのだ。肉がいたむ心配がない。急ぐことなく歩きながら、この肉の美味しさを引き立てるのは……やはり炒め物だろうか、冷蔵庫にあるのは玉ねぎ、白菜、キャベツの残り……と、頭の中で献立スロットを回し続ける。
そうこうしているうちに、並木道にさしかかる。見上げた枝の先には、ふくらみがある。2月に入ると、どうしたって風は春の気配をまとう。
どんなに寒くても、においが違う。肌への当たりが違う。花のつぼみだって結ばれる。どれも、完全なる冬のものではない。すくなくともわたしが暮らしたことのある関西や関東の太平洋側では、そのようなリズムで季節が移ろう。
寒さは嫌いだ。春が待ち遠しい。でも――あとちょっと、ほんのちょっとだけ、寒くていいかな。またあのお肉屋さん、行きたいし。みっしり巻いた白菜を食べられるのだって、冬だけだし。ちぢみほうれん草も、まだ一回しか食べてないし。
そんなことを考えながら、好きではないはずの冬の一日が終わっていく。
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寒さに弱い。当然、冬は好きではない。
ただでさえ寒い一月、大寒のころ。超級の寒波が来るという。東京でも水道の凍結の恐れあり、との報が流れる。
うちは外に洗濯機が設置してあるため、めんどくさいな~と文句を言いつつ、凍結防止の対策をする。
といってもやるのはシンプルなこと。タオルを細く切り、蛇口に巻きつける。隙間ができないように、くるくると。たったそれだけ。ダメ押しで、その上から切ったTシャツの袖をかぶせる。あまったところは、洗濯ばさみできゅっととめてやる。
やっていると、なんだか愛らしいな……という気持ちになってくる。まるでちいさな存在に、「寒くないように」とマフラーを巻き、ついでにショールでくるんでやっているような。
とくだん蛇口をいとおしく感じるわけではない……のだが、なんというか、この行為自体を愛らしく感じるのだ。モヤっとした、非実在の、概念としての、愛らしさ。
寒波が去ったあと、洗濯機の水栓をひねると、いつも通り水が出た。それは凍結防止のタオルのおかげではなく、東京の気温が予報より高かったせいかもしれない。それでも、なんともうれしく、やはり感じたのは非実在の愛おしさだった。
暮らしの中で、四季の移り変わりに合わせて、ごくごく原始的な対策を講じる。人智の及ばぬ自然の力を感じながら、「乗り切れますように」と祈りつつ、何かをする。東京に住んでいると忘れがちなその営み自体に、いとおしさが含まれているのだろう。
もちろん「いとおしい」なんてのんきなことが言えるのは、自然の脅威を感じることが少ない南関東の都会暮らしだからこそ、ではあるのだけど。
そういえば、この冬は、大根の葉で作るふりかけにハマった。きっかけは、ある日、持ち帰るのが大変なほどにわっさわっさと葉をつけた大根を買い求めたこと。いままでは、葉をわざわざ調理するのがめんどうで、葉付きのものを買うことは避けていた。が、ここまで立派だとさすがに食指が動く。しかも価格は100円。
家に帰るとさっそく葉を切り分け、王道のふりかけにすることにした。ボリュームがすさまじく、我が家の狭いシンクで洗い、刻む作業は手間ではあったものの、葉は火が通りやすく、調理自体はごくごく簡単で短時間なものだった。
そうしてできあがったふりかけは、わずかな苦みと、やわらかな味わいがあって、なんとも美味しかった。この味なら、多少の「めんどくさい」など吹き飛んでしまう。
ご飯にかけ、おにぎりにし、惜しみつつ食べ切ったある日。夫婦で散歩中、直売所で見つけたのは、丸くふっくらとした蕪だった。しかも、我々が求めてやまない青々とした葉がついていて価格は150円。
料金入れに硬貨を入れた後、夫は蕪を持ち上げ、「蕪っていうより、この葉がうれしいよね」と笑顔を見せた。この「うれしい」は、我々夫婦がこの冬、見つけたもの。寒さの賜物だろう。
大根の葉と同じレシピでふりかけを作ったところ、蕪のほうが大根よりもクセがあった。しかし、そのクセこそが我々の好みだということがわかったのだった。
寒い季節には、寒い季節の喜びがあるものだ。寒いのは、やはり嫌ではあるけれど……。
季節は過ぎゆき、近ごろは直売所でも葉付きの根菜を見かけることは少なくなってきた。そんなある日、散歩ついでに以前の住まいふきんへ足をのばしたところ、なじみの精肉店に行き当たった。
ここの肉は、スーパーの底値ほどは安くないけれど、気軽に買える価格帯で、料理の味を底上げしてくれるほどに美味しいのだ。ふらりと入り、豚小間肉やひき肉など、使いやすいものをグラム指定で買い求める。計り売りなので、「150グラムを2袋」と分包してもらえるのもありがたい。
マイバッグにおさめて、意気揚々と家路につく。何しろ冬なのだ。肉がいたむ心配がない。急ぐことなく歩きながら、この肉の美味しさを引き立てるのは……やはり炒め物だろうか、冷蔵庫にあるのは玉ねぎ、白菜、キャベツの残り……と、頭の中で献立スロットを回し続ける。
そうこうしているうちに、並木道にさしかかる。見上げた枝の先には、ふくらみがある。2月に入ると、どうしたって風は春の気配をまとう。
どんなに寒くても、においが違う。肌への当たりが違う。花のつぼみだって結ばれる。どれも、完全なる冬のものではない。すくなくともわたしが暮らしたことのある関西や関東の太平洋側では、そのようなリズムで季節が移ろう。
寒さは嫌いだ。春が待ち遠しい。でも――あとちょっと、ほんのちょっとだけ、寒くていいかな。またあのお肉屋さん、行きたいし。みっしり巻いた白菜を食べられるのだって、冬だけだし。ちぢみほうれん草も、まだ一回しか食べてないし。
そんなことを考えながら、好きではないはずの冬の一日が終わっていく。