ハシダ シュンスケ:kawaiii::cool_doggo: on Nostr: 「本を読む理由」 ...
「本を読む理由」
世の中には、文字を読む才能と呼べるものある。
それは決して文章の巧拙でも、熱中の度合いでもない。
それはただ、文章を読んで事細かに脳裏に情景が浮かぶかどうかということである。
それは描写さえあれば、手回し式のオルゴールの鍵盤を譜面がなぞるように、スメタナの『わが祖国』より「ブルタバ(モルダウ)」の管楽器の音色と、弦楽器の徐々に盛り上がる壮大な協奏が聞こえてくるということである。
それは描写さえあれば、夏の肌を突き刺すような太陽の光のうだるような暑さから額を通って頬をこぼれる少年球児の汗をぬぐう、長袖シャツの布地のごわつきを感じられるということである。
それは描写さえあれば、場末のスナックで出された卵焼きの砂糖と卵が焼かれたフライパンにこびり付いた油の匂い、店内に残った煙草の香りと、手元に注がれた焼酎の匂いを感じられるということである。
本を読む理由など結局は、文字を読み没入できるからとしか言えない。あるから読む、読んで得られる情報量が映像や音楽と大差ないから、選び続けるにすぎない。
そういう意味でも、文庫本はある程度整然とした文章を読むことが出来る一つの手段である。前置きは長くなったが、私は率直に言って食事の描写を読んで味が分かるから、文庫本を読んでいる。
事細かに説明されなくても――描写を読み解けば、その光景が脳裏に浮かび、香り、音と共に味が分かるのだ。
例えば、村上春樹が洒落た口調で書く、朝食の光景など最上のものの一つである。
まだ早い朝のキッチンで、男が湯を沸かす。
その間に、冷蔵庫の中からトマトを一つ取り出して、へたをくり抜き、反対側の部分に浅く十字に切り込みを入れ――
おたまにトマトをのせ、湧いた小鍋の湯の中に、ドポリーーと落とすのだ。
実に洒落ている。
芝居がかった光景である。
出来合いのトマトソースでは満足できない男は、あろうことか、朝っぱらからトマトを鍋に放り込み、湯剥きをするのである。
その後、男は別の小鍋に湯剥きしたトマトを移す。
そうしてニンニクとタマネギをすりおろすのではなく、まな板の上で、みじん切りにするのである。
たまねぎを、縦半分にしてから面を下にし、端から細かく切り込みを入れたのち――包丁を斜め横に複数回入れて、今度は縦に包丁を入れて、端から細かく切っていく。
ニンニクも同じように皮から外して、包丁でつぶし、みじん切りに切り、たまねぎと併せて小鍋に放り込む。
ピュアもこみちを入れて、火にかける。
そして、少し水分が飛び、トマトと具材と油が良く混ざったところで、トマト・ピューレを加えるのである。
勿論、ストラスブルグ・ソーセージも忘れてはいけない。
この、牛肉で出来た太目のソーセージを放り込み煮込む間、男は、まな板の上でキャベツの葉を重ねて手前から巻き、1〜2mm幅になるように切っていくのである。
さらに、ピーマンのへたをとり、クルリとねじるようにしながら種の部分を抜き出す。そうしてから、輪になるように切っていく。
この方が、繊維が残って辛味が出る。
勿論、コーヒーメーカーを動かして、ヒーターがぐつぐつとフラスコに入った水を熱し、水蒸気をファンネルへと注がれて濾紙の中のコーヒーの粉を濡らして――また、フラスコ内の圧力が下がって、コーヒー液が落ちてくる。
思いのほか時間がかかるあの行程を、男はソーセージを煮込む間に終わらせておくのだ。
几帳面なヤツだ。
あの作業は結構、時間がかかるというのに――
そうして最後に、長いバケットをアルミホイルに包み、少し水を加え――オーブントースターで2分ほど焼くのである。
これだけで、小麦の香りを漂わせてフカフカになったパンが供される。
男はその段取りになって、彼女を起こし、今のテーブルの上のグラスと空き瓶をうやうやしく下げるのだ。下げてから起こさないのが、どうにもいじらしい。
悔しいが、このご機嫌な朝食は甘美な味わいがある。
範馬刃牙のご機嫌な朝ごはんのフランス版だ。
水分を加えて熱することで柔らかさを取り戻したフランスパン。
ニンニクと野菜を併せて煮込んだトマトソースの中で、皮が破れて旨味があふれ出したストラスブルグソーセージ。
千切りキャベツにピーマンが併せられたサラダ。
そして、香り濃く抽出したコーヒー。
酷く甘美な光景が目の前に浮かぶのは、才能あるものの特権である。
初めのはフランスパンをちぎり、煮込まれたトマトソースに付けて、頂くのがいいだろう。バターの柔らかな香りがしっかりと感じられるバタールが、しっとりとトマトソースを吸ったところで一口。
舌の上に広がるニンニクの旨味とトマトの酸味と甘みが効いた小麦の味わいは、抵抗感のない柔らかなパンの味わいとあわさって口の中に広がっていく。
おいおい、こんなのよくないぞ。
咀嚼するたびに、オニオンとトマトの甘みがしっかり出て、半切りのフランスパンで足りるのかこれは――
もう一口、ディップして次はトマトの実がダマになったところを口に含む。日本人らしくズっと啜るように口に含んだトマトの感触を上顎で楽しみながら、クラストの香ばしさを味わえばもうたまらない。
この牛肉のソーセージという奴も悪くない。
現代では合挽きとなった、太いソーセージが、ニンニクをよく吸って、まぁこれがぶりんと口の中で弾けるものだから。もぐもぐと、肉の繊維を奥歯で断ち切るようにして食らいつくと――おいおい朝からこんなものを食べていいのかと、思えてくる。
少し重さの有る太いソーセージが、トマトソースで優しい旨味に包まれて、スープになっているから許されているだけで、実際、大分重たい朝食である。
うん、だからこそ、オリーブオイルと塩を掛けただけのキャベツの千切りと、ピーマンの輪切りだけのシンプルなサラダが嬉しいのだ。
一口、口に入れたらシャキシャキと音が鳴るようなサラダだ。パンにトマトソースを付けて、いっしょに口に放り込んだ時が、ガストロノミー的には一番合うな。うん、うまいぞ。
柔らかいパンのトマトと小麦の味わいに、少し苦みのあるピーマンと、食感だけを提供してくれるキャベツがあわさり、柔らかさと、硬さの対比が出来るからいいのだ。
ここに、ソーセージの肉味が合わさるとなると――
ふむ、たまりませんな(そして、筆者が最近どんな動画をみているのか、バレるのであった)。
食後のコーヒーも、香りが高くて嬉しい。
砂糖なんて幾ら入れてもいい。
だからこそ、香りの高いコーヒーが嬉しいのだ。
こんな体験にであえるから、文庫本はたまらない。
深夜の自室でも、電車の中、嫌な奴の話を聞くふりをして――この快感を楽しめるから、私は文庫本を一冊、いつも鞄に忍ばせることにしている。
果たして、あなたには「才能」はあるだろうか。
是非、同じ思いをした人がいるならば、臆せずお気に入りの一冊を探してみてほしいものである。
世の中には、文字を読む才能と呼べるものある。
それは決して文章の巧拙でも、熱中の度合いでもない。
それはただ、文章を読んで事細かに脳裏に情景が浮かぶかどうかということである。
それは描写さえあれば、手回し式のオルゴールの鍵盤を譜面がなぞるように、スメタナの『わが祖国』より「ブルタバ(モルダウ)」の管楽器の音色と、弦楽器の徐々に盛り上がる壮大な協奏が聞こえてくるということである。
それは描写さえあれば、夏の肌を突き刺すような太陽の光のうだるような暑さから額を通って頬をこぼれる少年球児の汗をぬぐう、長袖シャツの布地のごわつきを感じられるということである。
それは描写さえあれば、場末のスナックで出された卵焼きの砂糖と卵が焼かれたフライパンにこびり付いた油の匂い、店内に残った煙草の香りと、手元に注がれた焼酎の匂いを感じられるということである。
本を読む理由など結局は、文字を読み没入できるからとしか言えない。あるから読む、読んで得られる情報量が映像や音楽と大差ないから、選び続けるにすぎない。
そういう意味でも、文庫本はある程度整然とした文章を読むことが出来る一つの手段である。前置きは長くなったが、私は率直に言って食事の描写を読んで味が分かるから、文庫本を読んでいる。
事細かに説明されなくても――描写を読み解けば、その光景が脳裏に浮かび、香り、音と共に味が分かるのだ。
例えば、村上春樹が洒落た口調で書く、朝食の光景など最上のものの一つである。
まだ早い朝のキッチンで、男が湯を沸かす。
その間に、冷蔵庫の中からトマトを一つ取り出して、へたをくり抜き、反対側の部分に浅く十字に切り込みを入れ――
おたまにトマトをのせ、湧いた小鍋の湯の中に、ドポリーーと落とすのだ。
実に洒落ている。
芝居がかった光景である。
出来合いのトマトソースでは満足できない男は、あろうことか、朝っぱらからトマトを鍋に放り込み、湯剥きをするのである。
その後、男は別の小鍋に湯剥きしたトマトを移す。
そうしてニンニクとタマネギをすりおろすのではなく、まな板の上で、みじん切りにするのである。
たまねぎを、縦半分にしてから面を下にし、端から細かく切り込みを入れたのち――包丁を斜め横に複数回入れて、今度は縦に包丁を入れて、端から細かく切っていく。
ニンニクも同じように皮から外して、包丁でつぶし、みじん切りに切り、たまねぎと併せて小鍋に放り込む。
ピュアもこみちを入れて、火にかける。
そして、少し水分が飛び、トマトと具材と油が良く混ざったところで、トマト・ピューレを加えるのである。
勿論、ストラスブルグ・ソーセージも忘れてはいけない。
この、牛肉で出来た太目のソーセージを放り込み煮込む間、男は、まな板の上でキャベツの葉を重ねて手前から巻き、1〜2mm幅になるように切っていくのである。
さらに、ピーマンのへたをとり、クルリとねじるようにしながら種の部分を抜き出す。そうしてから、輪になるように切っていく。
この方が、繊維が残って辛味が出る。
勿論、コーヒーメーカーを動かして、ヒーターがぐつぐつとフラスコに入った水を熱し、水蒸気をファンネルへと注がれて濾紙の中のコーヒーの粉を濡らして――また、フラスコ内の圧力が下がって、コーヒー液が落ちてくる。
思いのほか時間がかかるあの行程を、男はソーセージを煮込む間に終わらせておくのだ。
几帳面なヤツだ。
あの作業は結構、時間がかかるというのに――
そうして最後に、長いバケットをアルミホイルに包み、少し水を加え――オーブントースターで2分ほど焼くのである。
これだけで、小麦の香りを漂わせてフカフカになったパンが供される。
男はその段取りになって、彼女を起こし、今のテーブルの上のグラスと空き瓶をうやうやしく下げるのだ。下げてから起こさないのが、どうにもいじらしい。
悔しいが、このご機嫌な朝食は甘美な味わいがある。
範馬刃牙のご機嫌な朝ごはんのフランス版だ。
水分を加えて熱することで柔らかさを取り戻したフランスパン。
ニンニクと野菜を併せて煮込んだトマトソースの中で、皮が破れて旨味があふれ出したストラスブルグソーセージ。
千切りキャベツにピーマンが併せられたサラダ。
そして、香り濃く抽出したコーヒー。
酷く甘美な光景が目の前に浮かぶのは、才能あるものの特権である。
初めのはフランスパンをちぎり、煮込まれたトマトソースに付けて、頂くのがいいだろう。バターの柔らかな香りがしっかりと感じられるバタールが、しっとりとトマトソースを吸ったところで一口。
舌の上に広がるニンニクの旨味とトマトの酸味と甘みが効いた小麦の味わいは、抵抗感のない柔らかなパンの味わいとあわさって口の中に広がっていく。
おいおい、こんなのよくないぞ。
咀嚼するたびに、オニオンとトマトの甘みがしっかり出て、半切りのフランスパンで足りるのかこれは――
もう一口、ディップして次はトマトの実がダマになったところを口に含む。日本人らしくズっと啜るように口に含んだトマトの感触を上顎で楽しみながら、クラストの香ばしさを味わえばもうたまらない。
この牛肉のソーセージという奴も悪くない。
現代では合挽きとなった、太いソーセージが、ニンニクをよく吸って、まぁこれがぶりんと口の中で弾けるものだから。もぐもぐと、肉の繊維を奥歯で断ち切るようにして食らいつくと――おいおい朝からこんなものを食べていいのかと、思えてくる。
少し重さの有る太いソーセージが、トマトソースで優しい旨味に包まれて、スープになっているから許されているだけで、実際、大分重たい朝食である。
うん、だからこそ、オリーブオイルと塩を掛けただけのキャベツの千切りと、ピーマンの輪切りだけのシンプルなサラダが嬉しいのだ。
一口、口に入れたらシャキシャキと音が鳴るようなサラダだ。パンにトマトソースを付けて、いっしょに口に放り込んだ時が、ガストロノミー的には一番合うな。うん、うまいぞ。
柔らかいパンのトマトと小麦の味わいに、少し苦みのあるピーマンと、食感だけを提供してくれるキャベツがあわさり、柔らかさと、硬さの対比が出来るからいいのだ。
ここに、ソーセージの肉味が合わさるとなると――
ふむ、たまりませんな(そして、筆者が最近どんな動画をみているのか、バレるのであった)。
食後のコーヒーも、香りが高くて嬉しい。
砂糖なんて幾ら入れてもいい。
だからこそ、香りの高いコーヒーが嬉しいのだ。
こんな体験にであえるから、文庫本はたまらない。
深夜の自室でも、電車の中、嫌な奴の話を聞くふりをして――この快感を楽しめるから、私は文庫本を一冊、いつも鞄に忍ばせることにしている。
果たして、あなたには「才能」はあるだろうか。
是非、同じ思いをした人がいるならば、臆せずお気に入りの一冊を探してみてほしいものである。